本日、お仕事の打合せで九段下に出かけた

打合せが滞りなく終わり、足を靖国神社に向けてみた

今、話題の渦中の神社

そして世界が最も注目している神社へ


別に野次馬的な発想はない

元々の職場が靖国の近所であったので懐かしさと

様々な意見が飛び交うこういう時期でもあるんで

目で見て自身の脳と気持ちで感じてみたかった


敷地に足を踏み入れると別段普段と変わらぬ様子だ

暫く散策してみる

冷静に観察すると

確かに”お稲荷さん”もおらんしフツーの神社とは趣が異なる

犬の銅像があれば「軍犬慰霊碑」

馬の銅像があれば「軍馬慰霊碑」

「軍」の字がやたらと目に入ってくる

零

拝殿の隣の棟には零戦も展示されている


2年ほど前に行ってた時は

人間魚雷を観た

それを観たときは「どのような気持ちでコレに乗り込んで行ったのだろう」

と言う胸が圧迫されるような複雑な気持ちになった


自身は”右”でも”左”ナイので

日の丸万歳と言う気持ちがわき起こる事はナイ

今想うのは 

戦争で死んだ人、

戦争で人を殺した人

戦争で人に殺された人

が居た事実だ

海外から諸々批判されているのは

”殺した人”と”殺された人”が同列に祀られる事

にあると思われる


誤解を承知で書くが

結果はどうであれ

いずれも”戦争”と言う”人格無き亡者”の被害者であり

加害者であると個人的に思う

日本人的発想と揶揄されるだろうが

オノレは日本人だ

この事実は曲げることは出来ない。


仮に

「オマエが敵をブチ殺さなければオマエの恋人がぶち殺される」

と日々耳元で連呼されたら、事の善悪より強迫観念によって

全力で凶暴性を解放して、敵をブチ殺しに行くことであろう

自身の身命より大切な守るべきモンがあるならば

ごく自然な行動なのかもしれない。

本来人間が持っている良き思考回路”守るべき者を守る”

ここにつけ込んで来るのが”人格無き亡者”ではないだろうか?

しかし戦争は人が起すモノ、山林火災や地震の様な自然発生的ではない。

人為的な要因が必ず存在するはずだ。

スポーツ等でも同じように、一度”競い”が起れば勝者と敗者に二分される

ボクシングの戦績と同じく、負け記録は一生消えることはない

拳闘の対戦相手となら、時が経ち分かり合い、いずれは”友”に発展することもあるだろう

しかし、戦争は”守るべき者”をも奪ってしまう

この感情を理屈で抑圧することは不可能であろう

分かり合う事は出来ないのかもしれない?

我が身に置き換えれば”恋人”を殺害した人間を許せるだろうか?

恨みは自身が朽ち果てても消える事は無い。

だからこの問題は金や方便だけでは解決することはムリ

恐ろしく根深い


しかし人類の歴史が始まって以来

いや、生命の歴史が始まって以来

この球状の世界で規模を問わず”戦争”が無くなった瞬間は1秒たりとも存在しない

その事にはどの国の元首も言及はしない

国単位、民族単位ではなく

戦争を憎め、そしてそれを起す人間(自分自身)自覚しよう

各々がそこに立脚することから総てがはじまる気がした。


ガキの時に読んだ寺山修司の

「家族を愛せよと言うことは、他の家族を憎むと言うことだ」

と言う一説が数年ぶりに思い起こされた

自身は考える事以外は何も出来ない男なので

諸々真摯に考え抜いてみようと思う

答えはで出ないかもしれないが、、、

今日の靖国神社はそんな気分にさせる空間であった


寺山 修司
家出のすすめ